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第2話 深紅のキスと、崩れた誕生日の夜

last update Last Updated: 2025-11-17 16:07:30

 どうしたらいいのかわからなくて、ロビーの端のソファに沈んだ。

 ホテルの照明はあたたかいのに、自分の身体だけが冷えていくみたいだった。

 膝の震えだけが、自分のものじゃないみたいに止まらなかった。

(……帰らなきゃ……でも……動けない……)

 そんなときだった。

 自動扉が開く音が、妙に大きく響いた。

 晴紀だった。

 すぐ目の前を、誰もいないみたいに、一度も振り返らず真っ直ぐ歩いていく。

「……はる、き……?」

 声にしたつもりなのに、喉の奥で溶けた。

 彼はそのまま外へ出た。

 黒い車のドアが静かに開いた。

 車内の灯りに浮かんだのは、青みを帯びた深い紫の装いの女──派手さはないのに、纏う空気だけが別格で、思わず息が止まる。

 脚を揃えて座り、白い指先で髪を払う仕草が、妙に洗練されていて目が離せない。

 横顔だけで、どこかの世界の人とわかる。

(……誰……?)

 世界の光が、その女だけを照らしていた。

「遅いわ、晴紀。……来て」

 声の響きだけが、直接、胸の奥に落ちてくる。

 指先が冷たくなる。

 呼吸の仕方がわからなくなる。

(なんで……目の前を……通り過ぎて……)

 世界が細いトンネルみたいに歪んで、音も光も全部そこへ吸い込まれていく。

 その先には──深紫の女と、晴紀しかいなかった。

 晴紀が乗り込み、ドアが閉まる一瞬、車内の照明がはっきり二人の姿を照らした。

 令嬢が晴紀の胸元をつかみ、強く引き寄せる。

「ちょ……っ……」

 押し殺したような声が聞こえた次の瞬間、唇が激しく重なった。

 私とするみたいな軽いキスじゃない。

 押しつけるみたいな、深いやつ。

 晴紀の背中がシートに叩きつけられ、令嬢がその上に覆いかぶさるように身体を倒す。

 噛み殺した息が混ざる。

 服が擦れる音が、ロビーまで届く気がした。

 令嬢の手が晴紀の顔を固定し、角度を変えて、何度も、何度も、貪るみたいにキスを落とす。

 ガラス越しでも分かるほど「熱」があった。

(……やだ……やだ……なに、これ……)

 視界が揺れる。

 涙が出ないのに、涙の味だけがする。

 令嬢は晴紀の襟を指で引き下ろし、首筋にキスを落とした。

 晴紀が小さく息を吸った。

 その顔は、私と向き合っていたときより、

 ずっと、ずっと……甘い。

(……あ……)

 呼吸を忘れたまま、ただ見ているしかなかった。

 最後に、令嬢が晴紀の唇をまた噛むように吸い、彼の肩に体重を預けながら笑った。

 車が滑るように走り出す。

 目の前から、二人の熱は、跡形もなく消えていった。

 残ったのは、ソファの上で震える自分だけ。

(……なに……これ……私、なに……してたの……?)

 胸の奥が、ズタズタに裂ける音がした。

***

 店を出た瞬間、足が震えた。

 深紅のワンピースだけが、夜の街灯に不釣り合いなほど綺麗だった。

(……帰ろ。とにかく、帰ろう)

 呼吸がうまく入ってこない。

 涙はこぼれないのに、視界がにじむ。

 ポケットのスマホが重い。

 迷ったけれど──耐えきれなかった。

《ごめん、D……今、家に来てもらってもいい……?》

 送信した瞬間、指先が震えた。

 すぐに既読がついて、短く返事が返る。

《すぐ行く。待ってなさい》

 家の前に着く頃には、もう限界だった。

 マンションの前でDと合流して、一言「ごめん、来てもらって……」と口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。

「いいから鍵、開けなさい」

 Dの声に頷いて、震える手で鍵を差し込む。

 部屋の明かりをつけた途端──

 深紅のワンピースが、ここでは急に場違いに見えた。

 その違和感に、心がひび割れる。

「……朱音?」

 Dに声をかけられて、そっと振り向いた。

 涙はまだ落ちていないのに、目のふちが赤くて、呼吸がうまく入っていなかった。

「……だい、じょぶ……」

「大丈夫って顔じゃないわよ」

 その優しさに触れた瞬間。

 堤防が、音もなく切れた。

「……っ……やだ……っ、D……っ……!」

 声にならない声が漏れる。

 涙がぽろぽろ落ちて、ワンピースの胸元に黒い点をつくる。

「もう……もう、なんなの……っ。なんで、あんな……っ……っ、ひど……っ」

 言葉が途中で止まりながら、Dの胸に飛び込むみたいに倒れこむ。

 Dは驚きもしないで、そのまま抱きしめた。

「うん、全部言っていい。

 今日は好きなだけ泣けばいいの。

 誰も見てないわよ、朱音」

「……予約、キャンセルしたって……言われて……ひっ……。……子ども、みたいで……プレゼント……ポイって……捨てられて……っ。……く、車の……なかで……っ、おんなと……く、くち……っ……してて……っ……」

 子どもみたいに泣く音が、部屋の静けさにしんと響いた。

 しばらく声も出ないままDの胸に額を預けていた。

 Dは何も言わず、背中をゆっくり撫で続けた。

 泣き疲れたころ、ようやく呼吸が落ち着く。

 部屋には静けさだけが残った。

 指先がDのシャツから離れかけて──

 また、かすかに掴んだ。

(……まだ、だめだ)

 声にすることもなく。

 ただ、その小さな震えだけが訴えていた。

 Dは何も言わず、私の手をそっと包んだ。

 言葉はいらなかった。

 慰めでも、約束でもなく、ただ寄り添うという行為だけがそこにあった。

 それでも朱音の胸の奥には、

 どうしようもない痛みの跡が、くっきりと残った。

 その夜、初めて──

 自分がほんとうに壊れたことを自覚した。

 そして、その壊れた場所に触れた手が、七年後の復讐へとつながっていくことを、まだ誰も知らなかった。

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