LOGINどうしたらいいのかわからなくて、ロビーの端のソファに沈んだ。
ホテルの照明はあたたかいのに、自分の身体だけが冷えていくみたいだった。 膝の震えだけが、自分のものじゃないみたいに止まらなかった。(……帰らなきゃ……でも……動けない……)
そんなときだった。
自動扉が開く音が、妙に大きく響いた。晴紀だった。
すぐ目の前を、誰もいないみたいに、一度も振り返らず真っ直ぐ歩いていく。
「……はる、き……?」
声にしたつもりなのに、喉の奥で溶けた。 彼はそのまま外へ出た。黒い車のドアが静かに開いた。
車内の灯りに浮かんだのは、青みを帯びた深い紫の装いの女──派手さはないのに、纏う空気だけが別格で、思わず息が止まる。
脚を揃えて座り、白い指先で髪を払う仕草が、妙に洗練されていて目が離せない。
横顔だけで、どこかの世界の人とわかる。(……誰……?)
世界の光が、その女だけを照らしていた。
「遅いわ、晴紀。……来て」声の響きだけが、直接、胸の奥に落ちてくる。
指先が冷たくなる。
呼吸の仕方がわからなくなる。(なんで……目の前を……通り過ぎて……)
世界が細いトンネルみたいに歪んで、音も光も全部そこへ吸い込まれていく。
その先には──深紫の女と、晴紀しかいなかった。晴紀が乗り込み、ドアが閉まる一瞬、車内の照明がはっきり二人の姿を照らした。
令嬢が晴紀の胸元をつかみ、強く引き寄せる。
「ちょ……っ……」
押し殺したような声が聞こえた次の瞬間、唇が激しく重なった。
私とするみたいな軽いキスじゃない。
押しつけるみたいな、深いやつ。晴紀の背中がシートに叩きつけられ、令嬢がその上に覆いかぶさるように身体を倒す。
噛み殺した息が混ざる。
服が擦れる音が、ロビーまで届く気がした。 令嬢の手が晴紀の顔を固定し、角度を変えて、何度も、何度も、貪るみたいにキスを落とす。ガラス越しでも分かるほど「熱」があった。
(……やだ……やだ……なに、これ……)
視界が揺れる。
涙が出ないのに、涙の味だけがする。令嬢は晴紀の襟を指で引き下ろし、首筋にキスを落とした。
晴紀が小さく息を吸った。
その顔は、私と向き合っていたときより、 ずっと、ずっと……甘い。(……あ……)
呼吸を忘れたまま、ただ見ているしかなかった。
最後に、令嬢が晴紀の唇をまた噛むように吸い、彼の肩に体重を預けながら笑った。車が滑るように走り出す。
目の前から、二人の熱は、跡形もなく消えていった。
残ったのは、ソファの上で震える自分だけ。
(……なに……これ……私、なに……してたの……?)
胸の奥が、ズタズタに裂ける音がした。
***
店を出た瞬間、足が震えた。
深紅のワンピースだけが、夜の街灯に不釣り合いなほど綺麗だった。(……帰ろ。とにかく、帰ろう)
呼吸がうまく入ってこない。
涙はこぼれないのに、視界がにじむ。ポケットのスマホが重い。
迷ったけれど──耐えきれなかった。《ごめん、D……今、家に来てもらってもいい……?》
送信した瞬間、指先が震えた。
すぐに既読がついて、短く返事が返る。《すぐ行く。待ってなさい》
家の前に着く頃には、もう限界だった。
マンションの前でDと合流して、一言「ごめん、来てもらって……」と口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
「いいから鍵、開けなさい」
Dの声に頷いて、震える手で鍵を差し込む。
部屋の明かりをつけた途端──深紅のワンピースが、ここでは急に場違いに見えた。
その違和感に、心がひび割れる。
「……朱音?」
Dに声をかけられて、そっと振り向いた。
涙はまだ落ちていないのに、目のふちが赤くて、呼吸がうまく入っていなかった。「……だい、じょぶ……」
「大丈夫って顔じゃないわよ」
その優しさに触れた瞬間。
堤防が、音もなく切れた。「……っ……やだ……っ、D……っ……!」
声にならない声が漏れる。
涙がぽろぽろ落ちて、ワンピースの胸元に黒い点をつくる。「もう……もう、なんなの……っ。なんで、あんな……っ……っ、ひど……っ」
言葉が途中で止まりながら、Dの胸に飛び込むみたいに倒れこむ。
Dは驚きもしないで、そのまま抱きしめた。「うん、全部言っていい。
今日は好きなだけ泣けばいいの。 誰も見てないわよ、朱音」「……予約、キャンセルしたって……言われて……ひっ……。……子ども、みたいで……プレゼント……ポイって……捨てられて……っ。……く、車の……なかで……っ、おんなと……く、くち……っ……してて……っ……」
子どもみたいに泣く音が、部屋の静けさにしんと響いた。しばらく声も出ないままDの胸に額を預けていた。
Dは何も言わず、背中をゆっくり撫で続けた。泣き疲れたころ、ようやく呼吸が落ち着く。
部屋には静けさだけが残った。指先がDのシャツから離れかけて──
また、かすかに掴んだ。(……まだ、だめだ)
声にすることもなく。
ただ、その小さな震えだけが訴えていた。Dは何も言わず、私の手をそっと包んだ。
言葉はいらなかった。
慰めでも、約束でもなく、ただ寄り添うという行為だけがそこにあった。それでも朱音の胸の奥には、
どうしようもない痛みの跡が、くっきりと残った。その夜、初めて──
自分がほんとうに壊れたことを自覚した。そして、その壊れた場所に触れた手が、七年後の復讐へとつながっていくことを、まだ誰も知らなかった。
あの夜から、私の世界の輪郭は急に冷えた。 誰かに触れられるのも、優しくされるのも怖い。 恋なんて、もう二度とできないと思った。 朝、鏡に映るのは、Dが整えてくれた眉じゃない。 自分で描けば曲がって見える、冴えない顔だけ。(綺麗になろうとした自分が、一番バカだった) 化粧も、明るい服も捨てた。 黒と灰色ばかりを纏って、外見を放り出したら、自信も一緒に落ちていった。 人と目を合わせるのが苦しくなって、息が詰まることもあった。(誰にも期待されなくていい。誰にも見つけられなくていい) 就職したのは、都内の小さな広告代理店。 地味で忙しくて、数字だけが裏切らない世界だった。 そんなある日、課長が置いた新規案件を何気なく開いた。 ──〈清晴堂〉 婚礼引き出物企画。 式場:ホテル・クラウンセレスティア 新郎:清水晴紀 新婦:神園いずみ 視界がきゅっと狭くなる。(晴紀が……結婚)「大丈夫?」 振り返ると、Dが立っていた。 フリーランスのイメージコンサルタントとして出入りしているDは、この会社とも何件か一緒に仕事をしている。 資料を見て、ほんのわずかに眉をひそめる。「最悪ね。打ち合わせ、同席するわ」*** ホテル・クラウンセレスティア。 一年前と変わっていない照明の高さも、香りも、でもそこに立つ私は、まるで別人になってしまったみたいだった。 Dの横顔を頼りに、なんとか呼吸を整える。 打ち合わせは淡々と進んだ。 晴紀の姿は——なかった。「では、ご家族との顔合わせを」 専務の声に、背筋が強張る。 披露宴フロアのロビーには、白い花と囁きが満ちていた。「……神園家と清水家よ?」「神園家って資産、何百億とか。旧財閥の本家筋だって」「令嬢、本物ね」「清水家のご母堂も……今日は格が違うわ」 視線も、スタッフの動きも、二家に吸い寄せられていく。(見なければいい。仕事だけして帰ればいい) そう思った瞬間——「晴紀、こっち」 その名が耳を刺した。 純白のドレスの令嬢が、青みを帯びた薔薇色の唇で笑いながら、 タキシード姿の晴紀の腕を当然のように取っていた。 目が合った。一瞬だけ。 晴紀の視線がすっと逸れ、喉がかすかに動いた。 後ろめたさか、ただの苛立ちか── どちらでも、もう関係なかった。 私がその意味を
どうしたらいいのかわからなくて、ロビーの端のソファに沈んだ。 ホテルの照明はあたたかいのに、自分の身体だけが冷えていくみたいだった。 膝の震えだけが、自分のものじゃないみたいに止まらなかった。(……帰らなきゃ……でも……動けない……) そんなときだった。 自動扉が開く音が、妙に大きく響いた。 晴紀だった。 すぐ目の前を、誰もいないみたいに、一度も振り返らず真っ直ぐ歩いていく。「……はる、き……?」 声にしたつもりなのに、喉の奥で溶けた。 彼はそのまま外へ出た。 黒い車のドアが静かに開いた。 車内の灯りに浮かんだのは、青みを帯びた深い紫の装いの女──派手さはないのに、纏う空気だけが別格で、思わず息が止まる。 脚を揃えて座り、白い指先で髪を払う仕草が、妙に洗練されていて目が離せない。 横顔だけで、どこかの世界の人とわかる。(……誰……?) 世界の光が、その女だけを照らしていた。「遅いわ、晴紀。……来て」 声の響きだけが、直接、胸の奥に落ちてくる。 指先が冷たくなる。 呼吸の仕方がわからなくなる。(なんで……目の前を……通り過ぎて……) 世界が細いトンネルみたいに歪んで、音も光も全部そこへ吸い込まれていく。 その先には──深紫の女と、晴紀しかいなかった。 晴紀が乗り込み、ドアが閉まる一瞬、車内の照明がはっきり二人の姿を照らした。 令嬢が晴紀の胸元をつかみ、強く引き寄せる。「ちょ……っ……」 押し殺したような声が聞こえた次の瞬間、唇が激しく重なった。 私とするみたいな軽いキスじゃない。 押しつけるみたいな、深いやつ。 晴紀の背中がシートに叩きつけられ、令嬢がその上に覆いかぶさるように身体を倒す。 噛み殺した息が混ざる。 服が擦れる音が、ロビーまで届く気がした。 令嬢の手が晴紀の顔を固定し、角度を変えて、何度も、何度も、貪るみたいにキスを落とす。 ガラス越しでも分かるほど「熱」があった。(……やだ……やだ……なに、これ……) 視界が揺れる。 涙が出ないのに、涙の味だけがする。 令嬢は晴紀の襟を指で引き下ろし、首筋にキスを落とした。 晴紀が小さく息を吸った。 その顔は、私と向き合っていたときより、 ずっと、ずっと……甘い。(……あ……) 呼吸を忘れたまま、ただ見ているしかなかった。 最後
「──朱音、目、開けて」 鏡の中にいたのは──見知らぬ「綺麗な女」だった。 肌は淡く光り、瞳は深く、睫毛がきれいに影を落とす。 髪は滑るように揺れ、Dが選んだ深紅のワンピースは、光を吸ってわずかに艶が立ち上がる気品のある赤で、身体の線を静かに拾っていた。 薄い光が布の表面をかすめるたび、まるで高価な墨をひと刷けしたみたいに深みが滲む。 メイクも服も、どこも破綻がなくて、息をのむほど完成されていた。(……誰……? 本当に、私?) 普段の私はノーメイクで、髪も後ろで適当にまとめるだけ。でも、三週間だけは違った。早起きしてスキンケアを変えて、間食をやめ、脚が震えるほどスクワットして……この日のために、別人のように変わった。「努力の成果がきちんと出てるわよ」 背中越しにDの指先が髪を整える。ふわりと、いつものあの香り──Dの手にかからなければ絶対に出ない仕上がりの匂い。「朱音。これで落ちない男は、ゲイよ」「……Dのことじゃん」「私はゲイじゃなくてバイ」 言うと、Dはゆっくりと目を細めた。 長い指で前髪を払う仕草ひとつさえ洗練されていて、成熟した大人の余裕と、中性的な美貌の危うさが同居する横顔が、かすかに笑った。 その笑みを追うように視線を落としたとき──鏡の中の自分と目が合った。 そこにいた私は、信じられないほど幸せそうに微笑んでいた。 バッグには、晴紀に渡す淡い水色の革のメモ帳。(……喜んでくれるかな)*** 今日は、晴紀の誕生日。 そして——私たちが付き合って一年になる、大事な日。 待ち合わせは、晴紀が予約したホテル・クラウンセレスティアのフレンチダイニング〈ラ・ルミエール・サンクチュアリ〉だった。 五万円の特別コース。 画面でその数字を見た瞬間、思わず息をのんだ。 写真の中の店内はあまりに美しくて── 自分なんかが本当にあんな場所に座っていいのか、不安が胸に滲んだ。(でも……晴紀は、大丈夫って笑ってくれた)(大事な日だからって) 思い返すほどに、その言葉が胸の奥をそっと温めていく。(……好きって言われて、手をつないで、キスまでして)(──これって、次に進むってこと、なんだよね?) 期待と緊張がゆっくり混ざり合う。 胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。 晴紀と初めて会ったのは、被災地のボランティアだっ